目次
心身ともに長く辛い介護ではありましたが、母の最期は穏やかでこの上ない理想の最期でした。
限界を何度となく超え、最後まで投げ出すことなくやり遂げたからこそ、私はあの素晴らしい瞬間を迎えられたと思っています。
そしてこのことはその後の私の生き方にも、とても大きな影響を与えました。
するべき大切なこと
①家族間、主治医との間で最期について共通の認識を共有すること。
- 看取りは介護の延長線上にある。
- 元気なうちに最期について話し合う。(主治医、家族等)
胃ろうをするかどうか?
点滴はどうするか?
積極的治療をするか?
入院を希望するか? - 一度決めても変更は可能。
- 最期について話しをすることは不謹慎ではない。
- いざという時に感情に左右されず適切な判断が出来る。
※あわてて救急車を呼んでしまい無用な救命処置が施されるのを回避できる。 - 要介護者にとって何が一番いいのかを最優先。介護家族、ましてや人がどう思うかは考慮しない。
※延命のための治療を拒んでも責められることではないし、個人的にはむしろ苦痛が少ないと思っています。
私も父も、母には積極的治療は行わず、自然な最期を迎えられることを願い、主治医にもそう伝えました。点滴をするかどうかは悩みましたが、石飛幸三先生の「平穏死のすすめ」を読み点滴もしないことにしました。
https://www.chiba.med.or.jp/general/iryonet/article/news/20130620/01/01.html ⇦ 詳しくはこちら
②最期を前に無理をしない

- 無理に食べさせようとしない。
食べないから死ぬのではなく、死が近づいているから食事を必要としなくなっていると理解しましょう。 - 無理に飲ませようとしない。
誤嚥の原因となる危険がある。ただ口の中が乾燥するため、濡らしたガーゼで口を拭いたり、スポンジに水を含ませ本人が必要なだけ吸わせる程度。 - 口にすることが出来る場合、高カロリーのゼリーや液体(イノラス等)にする。
但し、常に誤嚥の危険性があるため、無理はしない。液体もスポンジに含ませるなどして少しずつ飲ませるようにしましょう。
母の最期を迎えるまでの経緯
2020年
食事の摂取量は減ってはいましたが、平均で7割ぐらいは食べていました。
ただこの年の12月19日に今までにない大きな変化がありました。
12月19日早朝5時20分、痙攣発作が起きる。(認知症に見られるてんかんの症状か?)
- 突然の大声
- 体の硬直
- 体全体のガクガクする震え
- 荒い呼吸
- 目を見開く(普段目を開けていること少ない)
徐々に痙攣は収まり、30分ほどでいつもの状態にもどる。
なお、この間主治医に連絡し状況を説明し指示を受け、看護師さんが朝一で訪問して下さる。
2021年
いつもと変わらないお正月を迎えましたが、母はこの年、3月12日に老衰により息を引き取りました。
1月
- 昼食時に特にウトウトして食べないこと多くなる。(5割前後)
- 呑み込みが悪くなり、喉の奥の方でゴロゴロいうことが多くなる。(痰が絡んでいたのもあるかもしれません。)
- 水分をうまく飲み込めなかったり、朝のスムージーを残すことが増える。
※ストローで吸えないというよりは、受け付けない、飲みたくないといった感じ。 - 小さな体のピクつきが続く。(以前からある症状ではあるが頻回)
- 早朝に水分が上がってきて吸引が必要となる。
- 尿量が少ない。
2月
- 早朝の発作はないものの、大声を出し水分が上がって吸引することが多くなる。
- 体温が35度台と低い状態が続く。(平熱は36度5分。冬場は37度近くになっていた)
※食事の量が減っていることもあり、代謝が落ち熱が低くなっていた。 - 痰が絡むことが増え吸引する回数が増える。(水分摂取量が減り、粘度が増したため)
- 28日を境に、急激に食事の量が減る。(お昼4割、夜5割程度)
- 28日以降、歩行にも力が入らない状態。
3月
3月1日から12日までの状態については、母記録をもとに詳細に記したいと思います。
これを読まれて、少しでも在宅での看取りは可能で、怖がることではないとわかって頂ければ幸いです。
3月1日
昨夜ずっと痰のからんだ咳をし、その都度吸引。朝少しだけ咳、吸引。歩行力はいらない感じ。お昼夜共に3割。いよいよ最期が近づいてきている。食事を変更する必要ある。入れ歯もどうしたものか。
私の心情
こうして自然に最期の時を迎えるのだから、怖がることはない。とにかく乗り越えていくしかないという思いでした。
3月2日
昨夜は何度か吸引する。朝声出すことなくよく寝てくれた。
今日は朝食べず。昼は全く食べず。少しだけスムージーを食べさせる。水分もうまく取れず。
ずっとウトウトするので、昼間ベッドで寝かす。(※終末期にみられる「傾眠」)
夕食はもらったゼリーとスムージーを少し食べて終わり。入れ歯は入れるのを嫌がるので装着せず。
水分摂取量300cc。吸うことも飲み込むことも難しくなる。
この日を境に介護食を作るのを止める。
私の心情
これから母が元気になることはないだろうとすでにあきらめの境地。私は心穏やかにその日を迎えるのみ。
とにかく最後まで走り切れと自分を鼓舞。
3月3日
昨日の夜は静かに寝てくれた。今日は昨日にも増して状態は悪くなる。
朝オムツに尿出てなく、トイレで多量の尿。車椅子で居間に。イノラス50ccほどストローで飲む。
ウトウトするのでベッドへ。ずっとウトウト。
夕方トイレに起こすも足に力入らず足がガクガク。それをきっかけにベッドに戻った後軽く痙攣。
以降、無理に起こしてトイレを使うのではなく、ベッドでオムツを交換するようにする。
看護師さんから、食事も水分もとれないと、3日~2週間で最期を迎えることになると聞く。
私の心情
この状態が1か月続いたら私が耐えられるかわからない。と7年前に亡くなった父に、母が寝ている間に迎えにきてほしいと願っていました。最期まで頑張ろうと思っても、眠れず、食欲はなく、緊張で体はガチガチで、精神的にも疲れていました。倒れなかったのは神経が高ぶっていたからだと思います。
3月4日
傾眠傾向更に強くなり、一日中ウトウトしている。
水分はイノラスを138cc。
状態は昨日より良い。看護師さんが母が私に必要なお別れの時間を与えてくれているのだろうと・・・。
この日ベッドの上で清拭とオムツ交換を一緒にして頂く。
ベッドの上でオムツ交換はポータブルトイレと違い難しい。
※ベッド上でも横向きにしていつものように尾てい骨を指でコソコソと刺激すると排尿。
この日から母は、ベッドに寝たきりとなる。
私の心情
状態を持ち直しホッとすると同時に、この先も長く介護が続くのは無理だ。心身ともに私がもたないと思いました。
この日も父に自分は頑張っている。最後まで走りきると心の中で話しかけていました。
3月5日
血圧86まで下がる。
熱は38.2℃まで上がる。(水分摂れず脱水症状だった為。)
イノラス2口ほど飲むも咳き込み痰が出る。水分摂取この日はほぼゼロ。
粘りが強い痰が出る。(水分摂れてない為。)
看護師さんの訪問一日2回へ。
初めてベッドの上で看護師さんに母の髪を洗って頂き、その手際の良さに驚きました。
なぜ発熱したのか、痰の粘りが強いのか、などの説明を看護師さんから受けて、今の状態では自然なことだとわかり不安が和らぎました。
今晩にも逝くことがあるという心づもりをするようにと言われました。
母は苦しむ感じもなく、ただ気持ちよさそうに眠っているだけで、そのことが私を精神的に楽にしてくれました。
私の心情
看護師さんからの説明で不安が和らいだこと、今晩にもと言われ介護はもう長くは続かないこと、そして母が気持ちよく眠っていることで、少し気分的にはよくなりました。日記にも「私頑張れる」と前向きな言葉を書いていました。
3月6日
熱37.2℃
血圧110
脈よく触れる。
水分摂取ほぼゼロ。
一日が穏やかに過ぎ、母がスヤスヤと寝ているのを見ると幸せな気持ちになりました。呼吸が30秒ほど止まることがありましたが、そういうこともあると聞いていたので慌てることはありませんでした。
往診の日ではないのに、主治医が母の顔を見にわざわざ家に来て下さいました。
ありがたく、またそれほどに母の状態はよくないのだとあらためて思いました。そして事実、次に先生が母にあったのは、母が息を引き取った後でした。
私の心情
母の穏やかな一日、顔を見に来て下さった長年母を診て下さった主治医、そして訪問だけでなく、ラインのやり取りでも私の精神的サポートをして下さった担当の看護師さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。
最後まで頑張れと自分を鼓舞していました。
3月7日
熱37.3℃
血圧104
水分摂取ほぼゼロ。(スポンジで少量の水分を吸う程度。口の中は水分を含んだスポンジで湿らせる)
オムツに少量のピンク色のおりもの付着。(石鹸で洗った方が良いかもとのこと)
昨晩はずっと痰の吸引。眠られなかった。しかし今はもう先が長くないことがわかっているので、なんとか耐えられる。
午前中に看護師さんと着替え、オムツ交換。その後母はスヤスヤと眠り、この日も穏やかに過ぎました。
私の心情
血圧もよく、穏やかに過ごせることはいいのだけれど、心の奥で介護が長引くことを恐れていました。
スポンジに水を含ませると自分で吸うのでイノラスも飲めるかもしれないと思うも、気管に入って母が苦しい思いをするのを心配してか、これをきっかけにまた元気になったらという思いがあったからか、私は積極的に水分補給をしませんでした。
3月8日
午前中
熱37.5℃
血圧100
OPS(血中酸素濃度)85%
※かなり低い。通常96%以上
午後
熱37.0℃
血圧100
OPS 93%
昨夜1時過ぎ頃から、呼吸が止まることが多く、呼吸も浅く、ベッドの横に布団を敷いて寝ていた私は、母のベッドで一緒に寝ることにしました。
朝5時過ぎに大声をだし目を開けるので不安でドキドキ。とりあえずオムツ交換(ピンクのおりものを確認)し、石鹸で洗ってきれいに洗い流し一段落。その後おりものはない。
更に状態が進んだとと思ったが、午後にはOPSがまた上がってきて状態は少し上向き。
私は昨夜眠れなかったけれど、神経が高ぶってきつさを感じることはありませんでした。
私の心情
このころになると、とにかく母がきつくさえなければ、この母との時間がもう少し続いてもそれでいい。と思えるようになりました。
3月9日
熱37.5℃
血圧78
OPS 良好
昨夜も何度か息が止まり、その後大声出して深呼吸。
朝のオムツ交換では十分な量の尿が出ていた。看護師さん曰く内臓が強いからだろうとのこと。
買い物に行っている間に看護師さんが洗髪して下さる。通常母ぐらい血圧が低いと、家族の意向によっては洗髪しないこともあるそうです。
私は母の髪を洗ってもらい、きれいにしてもらったことに感謝しました。そしてこれが最後の洗髪となりました。
顔の右側赤く熱を持っていることに気づきましたが、薬も飲めず他にできることはないと、ただ見守るしかありませんでした。幸い母は痛みを感じてはいないようでした。
私の心情
怖がることはない。呼吸が止まることがあっても、息が浅くても来るべき時が近づいているだけ。と自分の不安を打ち消すように言い聞かせていました。
3月10日
午前中
熱37.0℃
血圧84
OPS 93%
午後
熱37.2℃
血圧104
OPS 94%
昨夜はずっと痰の吸引。咳き込んでは吸引を繰り返す。
母の右耳下から顎にかけて赤く熱を持っていたところが腫れる。しかし母は痛がる様子ない。
私の心情
母の変化に不安や怖い思いをしても、見守るしかない、現状を受け止めるしかない。
心の準備をしていても、長くこの緊張が続くのはきつい。
でも母との時間を大切にしよう。
そして、とにかく耐えて、生きて、最後まで母の介護をやり遂げる。そのことだけに専念しました。
3月11日
午前中
熱37.4℃
血圧74
OPS 94%
午後
熱36.9℃
血圧78
OPS 93%?
昨夜は良く寝てくれた。何度も呼吸止まるが、吸引することはなかった。
口の中をスポンジでこわごわでもきれいにしていたら、膜のようなものがごっそりとれました。
食事がとれなくなって、粘膜が弱くなってしまったのか(個人の感想)、口の中がいつもより赤く見えて、あまり強くこすることをしていませんでした。
すぐに嫌なにおいがするようになりましたが、この膜がとれてからはにおいはかなり収まりました。
午前中、看護師さんと一緒にオムツ交換と清拭。ありがたい。
私の心情
この状態で母との別れを大事にしようという気持ちになりました。
母の横で昔父が撮ってくれたビデオを久しぶりに見て、辛い介護のなかでも、両親と3人で楽しく幸せに過ごした時間もあったことを懐かしく思い出しました。
3月12日(母88歳老衰にて死亡)
昨夜はずっと痰の吸引。
5:30 目をパッチリ開ける。のどの奥で水分が上がってきてる感じがすると思ったら、吐きそうな感じで目を見開く。すぐ横向きにして吸引。痰ではなく水分。(祖父が亡くなるとき、吐いたことを思い出す)
5:58 看護師さんにラインで状況報告。手に力なく、呼吸は浅く早い。瞼も抵抗なく開けられる。瞳孔は開いていない。
7:30 オムツ交換。体を仰向けにするとまた目を見開き吐きそうに。吸引すると白っぽい水分でる。早々に終え、体を横向きに。いくらか落ち着いている。
8:14 看護師さん訪問。明らかに顔つきが違い、不整脈も確認。OPS 69%。手足の色は酸素が足りず紫色に。心臓に負担かかっているのだろうとのこと。
11:00 体位交換をする。
もう長くないことは私の目からも見ても明らかで、下顎呼吸が始まり、呼吸が止まっては、また息をしてを何度か繰り返す母のそばを離れずに、ずっと母の手をとり、母の頬をなでました。
そして最後の呼吸が止まり、母は静かで穏やかな最期を迎えました。
12:53 呼吸止まる 看護師さんに連絡。すぐ来て下さった。
13:05 死亡確認 主治医による
あとがき
その後看護師さんと私で母の体をきれいに清拭しました。そして白装束ではなく、いつも母が来ていた服に着替えました。セーターは私が英国から父へのお土産として買ったもので、父が好んで着ていたものでした。父に抱かれての旅立ちとなりました。

二日後に家族葬を自宅でし、火葬場へ。骨拾いは耐えられないと一人で帰宅。その後母は私が選んだピンクの可愛い花が書かれた骨壺に入って自宅に戻ってきました。
四十九日に母の骨を手放すことが出来ず、1年7カ月後、2022年渡英を前に納骨しました。